事実は小説よりも奇なり

事実は小説よりも奇なり。

Uni’s blog 備忘録

病院DAY。インフルエンザしたよ。

無事に予防接種してきました。
思ったより痛くなかったな。

というわけで、泣きまくりな数日間を過ごした旨お伝えしたん。
原因聞かれたんだけどわからなくって。
原因わからんやん。
人に会いたくない、喋りたくない、何もしたくない。。
のに、親に電話したっていう。

距離置けないの??って聞かれたんだけど、何もしない時間が出来るとついつい。そう、ついつい電話してしまうのね、一番しないほうがいいであろう相手に。

私の精神状態に最も影響を与える相手がうちの親。いついかなるときもずっと私の進む道をいい意味でも悪い意味でも作ってくれてたからね。

自分の存在意義をすごく考えてしまうってことを話してて、存在意義は生きてればみんなあるんだよって。存在意義のハードルが高すぎるんだって。私の存在意義ってなんだろう?→え、べつに私じゃなくていいじゃない。→というか、私いなくていいやん。→人が1人死んだところで世の中はなんとかまわる。そこに悲しみ等の負の感情が生まれたところで私の代替品、代用物は必ず存在して、なんとかなる。

親の為に生きて、(なんとなくこんな不出来な私でも子が先に死ぬのは悪い気がして)
今は自分の子供のために死ねずにいて。(これまたなんだか物心ついてきてしまっているから、こんな私でも死んだらちょっと拗らせ要因になるんじゃないかと。)

自分の為に生きるとか、自分がこうしたいとか、こうなりたいとか、そういうことを優先したほうがいいと。

存在意義に関しては、考えないように。と。考えすぎて、気にしすぎるあまりに何もできなくなるからと。

ふーん。考えすぎるあまりに何もできないか。

ていうか、先生の言ってること何も出来る気がしないんですけどなんて言いながら。

そしたら先生が一言。
なんか、行ける気がするんだよね。って。
は!?ドクターらしからぬお言葉やん。って思ったけど。

どういうことかと聞いてみると、
私は話を理解できるからだそうだ。
確かに私は先生の言葉を理解できるし、頭ではわかって毎回帰る。
わかると出来るは全然違うこともわかってる。
わかることすらできない人もいることを今日知った。

そして、存在意義について考えながら毎日過ごすというのは不自然なことらしい。

私不自然な日々を生きてきたんだと気づきました。

adiós!