事実は小説よりも奇なり

事実は小説よりも奇なり。

Uni’s blog 備忘録

病み期。病院yesterday

1年365日毎日病んでるわーって言ってるけど、
その中でも一応波ってものがあって。

病み期なう!
病院で、調子どう?って聞かれて、
どう見えます?っていう反抗的態度とる時点で私は常軌を逸している。
子供が可愛くないとか、一緒にいたくないとかグダグダ言ってる割に、保育園の送迎か一番の大仕事というか難関になってるし。

病院に依存してるんじゃない?と自問自答繰り返して週に何度も通院していたのに今では通院すらきつい。
何ならお風呂も辛いし、過食嘔吐だけど食べたり吐いたりも辛い。

子供を少しの間実家に預けようかなと思ったんだけど、そんな相談を病院でしたら、拒食になりそうだと。
確かに私は食べないなら食べないで多分1日過ごすことも出来る。
妊娠中は鉄剤飲む為に食事して、授乳中は母乳が止まらないように食事して、今は子供が食べるのに合わせて食べてて、でもその口に入れてしまった一口目をどうしていいのかわからなくて、怖くて詰めて吐いてっていう日々。

一口目を食べる必要が無くなったら私は食べないことを選択するだろう。
そしたら入院だよと。
食べることが治療になる。
食べない選択も出来るけど、そうしたら点滴かもしれないと。

私は点滴の針なんて簡単に抜いてしまうだろうから、意味無いですよって笑った。

そういう意味では我が子は私の生命維持装置になってるなと思った。
吐き残しの吸収したもので生きているっていう非効率な食生活だけど。

それを聞くと、なんだか子供を実家にあずけるのはちょっとやめておこうと思った。
死にたいと言いつつ、家で餓死なんて嫌だなって。
というか、母親が家で餓死したって我が子が後に知ったら可哀想かなとか。

そんなことを話しながら、外に出る口実を作って無理矢理でも出るっていう試練を与えられたのだけど。
何なら出来るのだろう。
仕事すら行けない。責任感なんてどこかにとっくに置いてきてしまった。
責任感は置いてきたのに自責の念に駆られる不思議。

外界と距離を置いていると成功体験や、きらびやかな世界の話ばかりが目に止まって、なんだか自分だけが沼地に足をとられているような気になってしまう。
今日より若い日はないと恐れながらも、1日を無駄にして着実に年を重ね、落胆する日々。

一見華やかなリア充ワールドと思われるFacebookをちらりと覗いたら意外にもみんなそれ相応に年をとって、若さという武器は無くなり、それなりのおじさんおばさんになりつつあったりもする。

お腹出てきた、顔たるんでる、今年こそはダイエット!って投稿した後にめっちゃ食べてたり。でもそこにはそれなりの笑顔があったり。

大体貧困シングルマザー代表の私が何で年が近いだけで北川景子ちゃん、深キョン、その当たり見て比べて悲しみにくれてるのかもわからないし。
OLからの寿退社、専業主婦時々パート希望だった私が、バリキャリワーママ、女会社社長を羨望の眼差しでみているのかもよく分からない。

全身鏡に自分をうつして、平均的な同じ年代の普通の人たちと交流するのも大事だなって思った。
そういうところに身を投じて結局こんなもんだよねーなんて安心するのも失礼な話かもしれないけれど、上を見すぎて勝手に自分を底辺の泥沼住民に陥れて、悲劇のヒロイン化するのに疲弊してる。

けれど、低すぎる自己肯定感と、謎の自尊心がアンバランスすぎて。
私はこんなはずじゃない。
もっと出来るはず。
でも出来ない。
なんで。死にたい。
っていう負のループ。

病み期だからだ。

今足りないのは、経済力。
残念ながら今経済力とそれなりの社会的地位を共に手にするのは年齢的に少々難しい。
だって今から医者になれないじゃない?

だからまず経済力だ。
って何となく昨日思いました。

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ジェーン・バーキンに似てるらし。私。