事実は小説よりも奇なり

事実は小説よりも奇なり。

Uni’s blog 備忘録

連日

私は子どものお迎えに14時半に行っている。
17時までは時間を使えると思って計画を立てているが、そういうわけにもいかなくなる。
話の通じない保育園に表面上温和な私にしては珍しく喧嘩腰になってしまった。
絶対に謝らない姿勢は、公務員ならではなのかしら?訴訟大国アメリカの真似?時間とっていただいてありがとうこざいます。という意味のわからない美辞麗句を言われたのだけど、お手数おかけして申し訳ありません。だろ?こちらの手違いでした。すみません。でしょ?って思ってしまうのは、まだまだ腐りきった世の中に適応できていない子どもな私が悪いのか。。

そういうわけで、私は公立とか、国立とかなんだか役場的なものがとても嫌いである。確かになかにはいい人もいて、本当に私が子どもと二人で保護してもらった際は、行政にまもってもらった。
そこは感謝している。

しかし、何が嫌いって、あの私たちがしてあげているという上から目線の対応である。低所得層にあたる私が納めている税金なんて、微々たるものだ。でもみんなが納めてる税金の一部が給与、ボーナスとして彼らに与えられているわけで。決してあなた方は無償で、ボランティアでやっているわけじゃないのよ。と教えてあげたい。弱者を助けてあげてるとか、明らかな金銭授受が明確に存在するわけではないので、何となく仕事をしている意識が欠如して、ボランティアしてる自分に陶酔してる、ように感じて仕方ない。

きっちり仕事してくれるなら、窓口にいくらかお金を支払う方がよっぽどいい。
大抵行政に頼るときはかなり追い詰められているのだ。その状況から脱するためなら少々の出費だって我慢できる。

私は運よく、周りに優良なNPOの方がいたり、自己中心的ではない常識を持った看護師の友人に恵まれている。
だから、行政に裏切られてもなんとか立ち直って、彼らに狂気の沙汰で瀕死の状態のところをいつも救ってもらっている。

私は昔いつか政治家になりたいと思っていた。でも高校時代の友人に、毒舌すぎるから、失言って叩かれてすぐ辞任だよ、コメンテーターになって好きなこと喋る方がいいよと言われた。

確かに。
今だって、行政腹をたてる一方でこの仕組みさえ変われば、救われる人が何人いるんだろうか。とか、なんでこの人が議員なんだろうとか。そういうことを考えてしまう。

しかし、社会的にアングラな世界を生きて、人から言わせると壮絶な人生を送っている私がそんな表立った、光の下で生きることは不可能である。
過去を探られ、週刊誌にぶち抜かれ、質疑応答で罵声をかけられ、それでも辞職はしませんなんて言えるわけもなく、辞職。の道をたどるのだろう。

割と面白い人生らしいから、エッセイでも書いて印税生活なんて陽気なことを考えたけれど、両親は健在だし、我が子が積み木崩し状態になっても困るので、それもできない。

もしも、両親が死んで、万が一我が子が私より先立つようなことがあれば、そのときはエッセイを書こう。

そして、私が死ぬ前に、きっと我が子に財産は残せないので、せめて手記を出版してもしかしたらヒットして印税で生活費くらいは稼げるかもしれないので、遺産として私の原稿は残しておこうと思います。